





20年も前のことであるが、池田氏の金沢美大陶磁コース在学中の作品を私は鮮明に記憶している。焼き物のコースを 選択して、何を作るのか、なぜ作るのか大いに悩んでいた頃の作品である。それは鮮やかな群青色のマットな乾いた質感の3角形や4角形の盤状のボディーに、 これまたカラフルな針金状のものや小さな球体や立方体がケーキのトッピングのようにくっ付いていた。情念的でポップな陶芸作品であった。しかし、大学院修 士課程進学の後、石膏型を使って反復成形する技を身に付けたその時からガラリと作風が変わった。幾何学的形態の無数の組み合わせに熱中し始めたのである。 彼は元来造形のアイデアの展開を図るとき、余分な形状や無理な形や無駄な作業は出来るだけ排除してシンプルな美しい形にすることが得意であった。空間に無 限に増殖する形はDNA の螺旋を想起させて幾つかのコンペでかなりの賞金を稼いだはずだ。大学院修士課程を修了後岡山県立大学の助手に採用されてパソコンと出会ったことは、その 後のアイデアの拡大に加速度をつけた。最近の彼は金沢美大博士後期課程に籍を置き制作と論文作成に四苦八苦だが「与えられた空間を作品が埋めるのではな く、作品が新たな空間を作る」とパソコンを駆使しながらも原型や型作りは手作業でじっくり作りこんでいる。プントでの展示に彼のどのような未来がシミュ レーションされるのか楽しみにしている。
私が手がけたい陶造形とは、単に立体物のフォルムであろうか?
いやそうではない。私はいつも作品の置かれる空間を意識している。作品を取り囲む空間には、光と陰影があり、色彩がある。空気があり、風がある。また、温
度があり、湿度があり、匂いもある。空間には、人があって初めてその空間に何がしらかの意味を生じる。その場所に立つ人の目には、作品はどのように映るの
か?作品は場の印象を構成する重要な要素なのだ。私は作品を通して、その印象を創りたいと考えている。
空間の中で、私の作品には光と陰影は重要な要素である。作品の表面にある波状の形は作品のフォルムを決定付けるとともに、僅かな光の変化を取り込み微妙な
表情を映し出す。
また、陶磁器は土を素材としており、奥行きと深みのある素材特有の趣を表してくる。
作品のフォルムが作り出す空間の構成、場の印象、素材感のある表情、これらが相まって私の意図するものは方向付けられる。
現代社会に生活する私たちにとって、これらの風合いを感じる力は衰えてはいないだろうか。私はもともと日本人が持ち得ていた感受性を際立たせ、それを作品
に表したいと思っている。何よりもそれは、私自身にとって心地の良いことであるから…
光と陰影、空気の流れや気配は刻々と変化する。私の作品と出会った時に、作品を取り巻く場の印象と変化を感じ取ってもらえれば幸いである。
いつもお世話になっております。池田晶一さんの展覧会は02年、 04年、06年に続いて今回で4回目となります。前回は「心の 眼に映る色-セラミックによる色彩の妙-展」と題し、異なった色 が同居する作品の表面の色の変化を新しい陶造形の表現として提 示してくださいました。 その後、常に新しい表現を模索し続ける池田さんは様々な研究と 試行錯誤を重ね、現在では作品単独の表現から作品を含む空間そ のものの表現へと領域を大きく広げております。 今回の展覧会では、巨大な空間表現のためにコンピュータ・グラ フィックスを駆使した、建築空間をも含むまったく新しい構想を 提示され驚かされております。 ますます期待が膨らむ池田晶一さんの新展開を是非ご覧いただき、 アーティスト・トークでのお話はもちろん、通常より多く在廊し ていただいておりますので直接のお話も合わせてお聞きいただけ ればと思います。 皆様のお越しをお待ちしております。
安藤忠雄設計の成羽町美術館において、太陽と月、それらをとりまく12星座をセラミックとガラスでインスタレーションし、大規模な個展を展開した。


「現代美術を通してみる後楽園」の趣旨のもと、11人の招待展出品作家の1人として「雲の鏡」「空の鏡」と題する陶板を出品した。


壁から床、コーナーへ展開。会場の制約により展示方法を変え作品が別の作品の様に変化することを経験。作品が空間に与える意味づけを、新たに深く思 考し始めた頃。


金沢市内の町屋の場の特性をテーマにしたグループ展。 前年に経験したコーナーへの作品設置などを展開。空間 そのものを作品にするという考え方が明確になってきている。「個」としての作品から「場」としての作品へ。


世界に展開する高級ホテル、ザ・ペニンシュラ東京のスイートルーム、4階フロアのインテリアに採用される。建物との調和の良さで選ばれ、来訪者の評 価は高い。


現在は「場」というものが重要な視点になっている。作品のスケールも非常に大きなものが考えられ、創造するイメージをコンピュータ・グラフィックス で表現し始めた。






1966 京都に生まれる
現在 日本福祉大学 健康情報学部 福祉工学科 准教授
金沢美術工芸大学 大学院 美術工芸研究科 博士後期課程在籍
2000 「焼き物新感覚」シリーズ8 陶の時間 池田晶一展
INAX企画(世界のタイル博物館・愛知県常滑市)
2001 -工芸からのアプローチ- 現代造形7人展
(松坂屋本店・愛知県)<以降'03,'05>
2002 個展(Galeria Punto・岡山市)<以降'04,'06>
2006 個展(ギャラリーAO・神戸市)
2007 てらまち こころまち まちや展(金沢市内町家)
金沢美術工芸大学大学院陶磁コース10人展
(ギャラリーマロニエ・京都市)
個展(なびす画廊・東京都)

池田晶一
成羽町と後楽園の件ですが、
成羽町の方のことに関しては、少し抽象的なニュアンスなのですが…
確か1997年のことだったと思いますが、カンボジアのアンコールワットを目当てに旅行に行きました。
その頃の私は、コンピュータを使った作品のイメージ作りにも熱中しており、少しデジタルの方に頭がよっていた時かもしれません。
作品においては少し、何か自分で物足りなさというか、自分の作品にも倦怠感を覚えていた時期だったのかも知れません。
カンボジアには初めての渡航でしたが、アンコールワット等のほんの少しの浅はかな知識のままその土地に赴いてしまいました。
その頃は、まだポルポトが生きていた頃で、密林でゲリラ的な戦闘も起こりうる環境で、なかなか怖い時に足を踏み込んだのですが…
取りあえずアンコールワットなどの遺跡のツアーがあって、たくさんの遺跡を回りました。
幾つかのカルチャーショックがあるのですが、遺跡を回っていると、現地の貧しい(現地では普通?)子供達が、竹でつくったお土産や、コカコーラを
持って、ツアー客(私)の後ろをワンダラー、ワンダラー(1ドル)と声を出しながら付いてきます。それもニコニコしながら…
後、遺跡の中で働いている現地の人たち(遺跡の草むしり等の作業)の日当が1ドルと米と油だとツアーガイドに聞かされました。
その時に、1ドルという価値観とコカコーラ…いわゆる文明社会(私たち先進国がいる側)の刹那的な経済社会の一面を見たような気分になりました。
アンコールワットは壮大で、ジャングルの密林の中にあり、空が広く、青く、アンコールワットの一番高いところから夕方日が暮れてゆくのを見ると何とも私の
過ごしている世界の薄っぺらさというか、そんなものを感じたのです。
また、最初にポルポトについて少し触れましたが、プノンペンには、ポルポトの虐殺自体のいろいろなものを展示した資料館がありました。もともと小学
校だった場所だと記憶していますが、最初の方の部屋では、がらんどうの部屋にボロボロのベッドが1つ置いてあり…一見それだけですが…(後で何となく感じ
たことは、床に何ともいえない色のシミがありました。おそらく血痕の後…)
そして次の部屋には、部屋の壁一面に人の顔写真。首からは数字とアルファベットの番号札をぶら下げていました。白黒写真です。どの顔も生気はなく…おそら
くその撮影の後ほどなく処刑されたことを想像できます。
後は、いろいろな拷問の道具の陳列。
ここを出る頃にはいったい私はどこに来てしまったのか、何を見てしまったのか、そんな思いでした。
ただアンコールワットに興味を抱いてカンボジアに足を踏み入れただけだったのですが…私の知らなかった歴史的事実と、先進国と発展途上国の埋めよう
の無い格差(良いか悪いかは別として)。それを目の前に…おそらく断片でしょうけれど、見てしまったのです。
スコールが降れば、雷が鳴り、食事中のレストランの裸電球の照明は停電の為に消えます。レストランにしても、現地の客というよりもツアー客ばかりで、私た
ちが食事をする所は現地の人にとっては高価なレストランです。
アンコールワットは確かにすばらしい建築物でそれだけ見れば感動の旅行だったのですが、それらを取り巻く目に見たものが、私にはショックでなりませ んでした。
その後、カンボジアから帰って、半年から1年制作を意識的に休止しました。と、いうより休止せざるをえなかった。
それは、カンボジアに行くまでに私が熱中していたパソコンの中に広がる世界への問い直しと、私自身がなにもので如何に生きてゆくかを見つめる必要性を感じ
た為でした。
作品に関していえば、それまで単に幾何学的な形の繰り返しを主に形作って来たことへの疑問もありました。
自分自身に対する奥行きが見えない。薄っぺらすぎる。
そんなことをカンボジアのあの遺跡で出会った子供達と重ねて、彼らにとってこれまで私が作ってきたものがどのように意味を持ち存在してくれるのか、また彼
らの目にどのように映るのか?
それに対して自分の中に何か光明を見つけない限り、先には進めない気がして…
その半年から1年にかけては、何か手がかりが欲しくて、日本とタイトルの付く本を書店で買って読みあさり、自分が生まれた京都とは…等、自分の本質に付い
て見つめ直した時でもあります。
次の年の1998年1月に岡山の すろおが463
で個展を開催しています。それは花びらが広がるような、水滴が落ちて水が輪になって弾けるような、そんな形のものが出来上がりました。
Puntoの籔さんが私の作品を見て、また私が籔さんと初めて出会ったのはこの時だと記憶しています。
成羽町の展覧会はその1998年の夏です。
展覧会のタイトルや内容は既にご承知の通りです。
カンボジア以前の作品も動員して展示を行いましたが、それ以前には出来なかった表現が自分の中に生まれていたのかな…と今見直すとそんな感じもします。
作品の変化に付いて詳しくいえば、形の変化だけ追うのではなく、作品のあり方について意味を深く考える様になったことです。
後楽園については、依頼を受けた瞬間からこれは大変なことだと思いました。後楽園が圧倒的すぎて、完成された庭園です。いったい何を作れば良いのや
ら…という思い。
最終的には、ミニマムアートというのでしょうか??形を作ることをやめてみた。という感じです。いや、具体的な形を作れなかったのが正しい表現かも知れま
せん。作品を取り巻く環境の、非常にデリケートではあるが、光の陰影と、風の匂い、気配、草木の葉擦の音、ゆっくり流れる時間の心地よさ…そんなものを丸
ごと意識させるような作品。
作品を注視させることで、その中に鑑賞者を導いてしまえないか、そんな感じです。
しかし、作品を展示し終えるまで、そのようなことも私の中ではおぼろげでしたが…
会期中には、写生大会に来ていた中学生の男の子が、川の流れの中の作品に飛び乗って、作品が破損してしまうということがありました。幸い怪我は無
かったようですが…
その後、写生大会は中止になり、生徒達は、芝生で輪になってその出来事についての反省会をした様に聞いています。少しかわいそうな気もしましたが、
後に作品を壊してしまった生徒からお手紙が来まして…それについては特にないのですが…
この件で少し私が、うれしかった(誤解の無い様に…壊れたことがうれしかったのではありません。)ことがあります。それは、その中学生が、私の作品の上に
乗りたくなった、ということ。
実は展示中にも、川辺に近いところに作品を設置した時に、少し目を離しているうちに大きな大人の靴の足跡が、作品にくっきりと…ということがありました。
そんなこんなで、作品はよほど勢いよくジャンプしないと届かない場所まで、川辺から離して展示したつもりだったのですが、その衝動を抑えきれずに少年は、
飛んでしまったということでしょうか。
作品が、人に対する興味、乗ったり触ったり、そのように扱われることに対して私はそれをいくらか意図もしていましたので、そのことに付いて純粋に愉 快だったのです。
今回の展示では、ミニチュアで人が絡む作品プランを提示する予定ですが、作品には、人に対してそのようなエネルギーを持ちうるし、その様な関係 (場)をどのように作り上げるかが、今の私のテーマの一つでもあります。
長々と書いてしまいましたが、これくらいにしておいた方が良さそうなので…